okeiのコトバ~okeiオーナー片寄雄啓の話~

神奈川大学を卒業し、広告代理店で6年間勤務。ウルフルズ「ええねん」を聞いて、飲食店独立を決断し、退社。2年弱の修業を経て、2005年に29歳で新橋でokeiを開業。(現在、Pizzeria Terzo okei,Viva okei,酒場961,OKEI BREWERY,Atelier de terrine maison okei,filoの6店舗)飲食の事、カズやサザンのこと、人生の事。コトバノチカラを信じて日記に示したいと思います

お箸

中学1年から両親が離婚し、そこから色々波瀾万丈環境だったから、あんまり小学校の時の思い出に良い事がない。前にも書いたけど、めちゃくちゃ嫌だったことは消し去られて、忘れる能力が身についている。記憶は整理されていくから、言われたら思い出せたりするが、無な記憶が長い気がする。

最近思い出したことがあり、ほんわかしている、毎日。

妻のお母さんに新しいお箸を頂いた。少し長めでシックな純和風なお箸。その箸を見て、ブワーッて小さい頃の記憶が蘇ってきた。

そのお箸は、僕が小学校の時に父が使っていたお箸そのものだった。

あまりに大きな手と箸。隣にいた僕はかっこよく見ていた。巨大な父に心奪われていた。

その箸はどんな魚でも綺麗に食べる魔法の箸。中骨だけを外し、パクパク口に運ばれていった。

【たけ、魚は綺麗に食べるんだ】

そう厳しく言われていたが教えられた記憶はない。怒られるのが怖くてなるべく小骨は噛んで食べていた。そうすれば、早く食べられるし、綺麗だし、何より怒られないから。

結局、今では魚を食べるのは綺麗だし、だいたい食べちゃう人になりました笑

毎日、朝ごはんはなるべく妻が用意してくれる。

【朝くらいしか一緒に食べられないから】

そこに用意されている箸が最近は神々しい。

父の箸のようで。しかも義母から頂いた奇跡の箸。いつか角が取れたり、擦れてきたりするだろう。その感じも、またあの時の父の箸そのものだろう。僕にとって巨大だった箸は、今ではピッタリ馴染む大きさになった。

そして巨大だった父の手や体は、今では僕よりも小さかった。

これからの朝が楽しみだ

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年を重ねていること

自分がやっぱり年を重ねてきたんだなって思うことがある。

もちろん、それはマイナスじゃなくて、しっかりと積み重ねていきたいものとして。

特に思うことがあるので書いておこう。

それは人へのギフトや気持ちを伝えることなどの時に感じています。

今までそりゃ、沢山のサプライズをしてきたつもり。

結婚式ムービーで日本津々浦々飛び回ったり、徹夜で何日間も余興の練習もしてきたし、顔なんて塗ってない色がないくらい笑

全身タイツはクローゼットに各色あったなーとか。

何十万円も使ってやってことだってあるしねー。ってそれを自慢したいわけじゃないです。何が言いたいかと言いますと。

単純にTシャツを作ってあげたりするじゃないですか。

僕なんかからすると「やり飽きていて」、あんまりだなーとか、他になんかしてあげないとなーとか思うわけですよ。

でも、一緒に働いているスタッフ10代から30代くらいのスタッフはすごい楽しそうにしていたりするのです。

僕が飽きてしまっていることも、彼らにとっては初めてのことだったり、一体感が嬉しかったり。一緒のものを着るってことだけでも幸せだったり。

コロナもあるのかもしれませんね。

自分が今までしてきた経験をそのまましてあげることだけでも、人を幸せにできるんだなって思うとなんだか嬉しくて。

広告代理店時代の先輩方が無理して頑張ってサプライズをやっていたのを思い出す。

ああいう無駄っていいですよね。

今は100均でも色々揃う。だからこそ、それでも楽しませてあげることって出来るんでよね。

自分のために知らない時に色々考えてくれたり。準備してくれたり練習してくれたり。

そんなことが嬉しいんですよね。そして徹夜して準備しているってことが楽しかったり。

僕なんかはそうやって生きてきたけど、若い方々にもそれが伝わるんだなって。

年齢は重ねていくもの。

それを吐き出す時なのかもなって。

やれ!ってことじゃなくて、楽しいことだけを伝えたいなって。

多少なりとも投資や出費があっても気にしなかった。

喜んでもらうためにやっていたから。それが自分の血となり肉となってきた。

自分自身を作ってきたのは、誰かのために何かをしてあげたい!ってキモチ。

それがあったから出来ることも増えたし、仲間とも有効な関係がある気がする。

高校生の時に書いていた日記に書いてあったな。

「頼られない男にはなりたくない」

少しでも誰かのために生きてみたいって思っていたのだとしたら悪くない高校生笑

もう少し頑張ってみようって思う。

今の自分に頼ってくれる人がいるならば手を差し伸べてあげたいし、それによって自分が成長できるならやるべきことはあるはずだから。

 

初動

今年で49歳となる自分。高校生くらいから見たら、おっさん。

でも自分自身はあまり精神年齢は変わっていないような気がする。

こんなことは思ってもいなかった。

今、仲の良いおっさんたちやもっと先輩方も、おそらく同じなんだろうなって思うと笑えて来る。だって、60歳くらいの元気なおっさんが周りにごろごろしているが、多分僕と同じように精神年齢が一緒だったりするってことだから。

そう考えると、身体が動く間にやりたいことをやるとか、思いついたら未経験であったも初めて見るとか、初動の遅さは楽しみを失うことにしかならないのかなって思う。

同じく無理する必要もなく、そのバランスが個人のストレスといわれるようなものがあまりたまらないのかなって思います。

さて、自分はどうなんだろうって思いますが、自分はストレスって言葉をあまり感じてくることはありませんでした。ただただ、今を生きるというか、思いついたらやるっていうことを続けてきたので。

そこには失敗も成功もあったのだが、人から見て失敗であっても、個人的にはあまり失敗でなかったりする。(損失が多い事業があるとか、売れないとか、人がいないとか)

自分でやることだから、そもそも自分に期待していないというか成功する(何が成功化もありますが)っていうことを前提にしていないからなのかもしれない。

参加することに意義がある」なんて言葉を若い時から聞いていたが、わかってきた気がしますね。

参加すればいいって意味じゃないってことを。

参加すると必然的に準備から実行。反省が伴う。そしてそこには人やモノがあって時間がある。お金もあるしね。

参加するって初動を発進することが出来れば、少なくても経験値は上がるし、恐怖と期待と不安とウキウキが全部やってくる。

それだけでも頭はパニックだし、ドキドキする。

初動って夢の一歩ですよね。

僕、今てんぱってます。

20周年で2000人フェスやります!なんて言ってますが、場所が決まらないし、ちょっと予算考えたら1000万は越えるし笑

出来んの?なんのため?みたいな葛藤で夢にまで見るほどです。

日頃の営業やスタッフの入退社なども課題が多いのに、そんな先の夢物語をやって、しかも全く進まないこと。本当にビビりまくりです。

限界がある、、、、とか思ったりね。

でも初動はしています笑

会場に電話して鼻で笑われて断られたり、すごい金額言われたり。

でも、とにかく糸口探して探して何とか場所と人と見つけていきます。

出来たら今年。小さなライブ企画をやったり模索フェスやるつもりです

 

 

時間は有限

ドラマって今、見る機会は減ったのかなって思いますが、皆さんはどうなんだろうか。

学生時代は東京ラブストーリーとか、とんぼとか言ったらきりがないくらい見ていたような気がするけどね。

ムーブメントになるドラマは今でも目に映るけどなかなか通してみることはなく、再放送を夜中にやっていて少し見たりするくらいです。

そんな中、世の中ではそこまで人気のないようですが「君が心をくれたから」というドラマを見ていました。

ドラマの内容は書きませんが、「時間が有限」であることを痛感させられる内容。

ドラマの良しあしというよりは、自分の人生や生きている今この時間も大切にしなければいけない。そういう意識をガツンと伝えられました。

ちょっとした時間に出来ることはあるのに、出来ない自分。

大切なものとそうでないものを区別しきれていない自分。

災害やぬぐい切れない未来もあるかもしれない。だから日々を大切に。

そんな当たり前のことを当たり前にできる人でいないと。

ありがとう、ごめんなさい

それをしっかりいえることや、礼節。

そして「明日やろうは馬鹿野郎」精神。

今やりたいことや、やりたくないこと。

もう若くもない。時間は限られている。

若い時に頑張ってきたことが今成果としてあるのかもしれない。

50歳になるちょっと前。

今の幸せと老後の幸せのために生きていくのが必要なのだろう。

同時に、若いスタッフの夢や希望を叶えたり、受け入れていくこと。

いろんなことを背負いがちだけど、それにも慣れてきた。

本当の本当に自分勝手に考えたら何がしたいのかなーとかドラマを見ながら考えた。

会いたい人に会うことや行きたいところに行く。

家族の時間を大切にする。仕事も楽しむ。

今までしてきた無理や頑張りをもっともっとやるのもいいが、無理や我慢だけにならないようにする。

時間が有限って考えると焦ったりするけど、過去を思い出したり、幸せなことを感謝したり、そんなにお金が多くいらないかもなとか。

時間がないなら、限られた時間で出来る幸せでいいじゃんって考えたりできた。

ドラマって何か気づきももらえるんだなーって絶対この気持ちを忘れないでいようって思う。

そして本当に書きたいのだが、時が来たら書きたいこともある。

なぜ今ドラマに引き込まれたのか。

それはいつか書きます

 

 

風の日

ここに書くときはいつも書きたい!って思って書いていることが多い。

ただ、これからは少し緩めに「続けて書く」ことを意識してやっていきます。

細かいことでも色々と日々や過去にありますから。

思えば、自分がお店を出してなんだかんだ継続はしているのですが、これは狙ってできたことなんてほぼないです。

4年目で2店舗、7年目で3店舗。そこから少しずつ増えては減っていった。

これ、計画的ではないのです。

そういうと経営としてどうなんだ!ってなるですけど。

とは言え、出会いや別れもあるし、物件や人もそうですからね。

タイミングが合うのか、合わせるのかは別として、自分がセレクトした今を未来につなげる動きをするしかないのです。

要するに、狙ってやったかどうかもありますが、今が全てだから、それが正しかった!というものにするために日々を過ごすしか、ないです。

特に僕の場合は、そこまで能力はないですし、先見の目があるかどうかもわかりません。だから、自分のアイディアがワクワクしちゃうと、進めていくタイプです。

ちなみにブルワリーをスタートしたきっかけは、フェイスブック広告です。

それをクリックして本当にコンサルと相談をしました。

そしてそのコンサルと一緒に立ち上げていきました。

ピッツァ習ったり、ワイン習ったり、飲食の知り合いがいなかったから、広告を見たりして電話したりして今があります。

沢山のお金をドブに捨ててきたって思うか、いやいや自己投資ですっていうか。

それもどちらでもよくて、結局、今があれば正解だったのかなって思ってます。

ただ、先はわかりません。

だからまた、常に悩んだり止まってしまったり、不安になったりします。

エルレガーデン

風の日 みたいかな。

 


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ご相談事の中の違和感

新橋からスタートしてコロナで大転換。

白金、月島はスタッフに譲り、今は日暮里、豪徳寺と新橋2店舗。

間口が増えても悩みは1000倍になりつつも、お陰様で生きていけてます。

今までと違う交友関係も増え、いろんな方と話す機会があります。

その中で事業を始めたばかりや、規模拡大していく人、異業種チャレンジ、などなどの方と話すと色々とご相談受けたり、他愛もない話からお互いの人生や商いについて話が出来る時があります。

そんな中で最近連続して肌で感じた「違和感」というのか、事業者の悩みが同じ方向にあることがあったので、賛否両論あるとは思いますが、僕なりに思うことを忘れずに書いておきます。

僕なんかの意見が何かになるかはわかりませんが、現実ではあると思いますので。

飲食業だけではなく、製造業もやっている自分。周りも当然同じ業種が多いけど、衣服や音楽、いろんな方々がいます。

同じ悩みっていうのは「人」です。

ふと見たら、1500円っていう時給だったり、週休2日や1か月休み!とにかく人を確保するために、また辞めさせないための努力を企業は惜しんでいられない状況のようです。

人がいないから閉店もザラです。

また雇ってもうまくいかないからバックレてしまったり、もめて訴えられたり。

企業にしがみつくなんてことは皆無で、他にいくらでも働くところは見つけられるということでしょう。

また、今までいたスタッフと最近雇うスタッフの給与体制差異や、面接でもちょっとした言い回しの違いで、温度差があったり。

そんな中でも、皆自分お店をなんとかポジティブにしようと必死です。

オケイさんはどうしているんですか。

そんな疑問というか、話をよく頂いたりします。

いろんなパタンがあるので一概には言えないのですが。まだオープンしたばかりの方たちには共通してお話しすることがあります。

僕は来年20周年。お店は14店舗だして今は4店舗。

独立していった人は15人。

ほぼ1年に1人は重要な人物が辞めている。

今まで働いてきた人は100人以上。

閉店して大きな損害があったこともあるし、積み重ねた経験は計り知れない。

とにかく浪費してきた時間やお金は、数えたらきりがないほど。

家がない時間もありました。

色々巻き込まれ弁護士費用が150万とか、休業とか、警察沙汰とか。

そして今。

休みも月7日+8日間(10日連続休み含む)が完備され、月給も大きく増えた。

ボーナスもしっかり支給され、悪くない待遇をスタッフに与えられている。

そこが今の時代にもたまたま合っていて、よく思っていただける方も多い。

ただです。

このスタイルは簡単ではないです。

11年ほど前からゆっくりと準備してはダメになり、少しずつ待遇をよくしてきました。

給与だけはある程度ありました。

休みはなかなか難しかったし、勤務時間も少しずつ短くしていきました。

急ではありません。

オープンしたばかりはシェフと二人。休みもないし、時間も18時間とか休憩なし。

給与はあったものの、劣悪な環境でありました。

ただ夢や希望にあふれ、笑顔で楽しく日々を過ごしていました。

今、お店を出す人は、最初から夢のような待遇をスタッフに与えて、自分の夢や希望はかすんでいるように感じます。

スーパーマンではない自分。

長い時間や浪費がない初動というのは、いささか無理があるように思う。

痛みがあってこその感動や未来もあります。

事業者の辛さや喜び。そんなものもスタッフには財産というか宝物。

踏ん張っているのを応援するのも人生必要じゃないでしょうか。

そんな経験はいずれ自分が頑張るときに必ず帰ってくる。

うまくいくことだけじゃない。

行き違いで別れてしまったり、けんかになったり。

愛情が伝わらなかったり、全員辞めてしまったり。

それでも救ってくれる人がいて、また反省したり。

そんな生きている姿をスタッフが寄り添ってくれたなら、人生をかけてそのスタッフを守りたくなるだろう。

経営者も泥力は必要だが、まずはたくさんの時間と体を使ってもがき苦しみ、幸せが光が見えるまで踏ん張ることじゃないかな。

今の世の中に合わせて、休みが多いとかを無理に遂行することは、未来につながるのかは疑問です。

時間がなければ、お互い成長しないわけですから。

休みも給与もいい方がいいけど、最初からそれを求められる今の世の中は起業する人にとっては、かなり心が痛い話であり、五里霧中で楽しくない世界の入り口の気がします。

徐々に良くなる状況を階段を上るように過ごしていけるように祈っています。

もちろん、自分はその先に入れるようにより努力をしていかなくては先がないと自覚しています

 

一人のはずの18周年パーティ

少し重複しますが書いておきます。

1週間前に「一人で周年パーティやるよ」と急遽言い出した18周年、12/9 土曜日。

実際には沢山の人から「今年こそ、周年パーティ復活だよね?」みたいな話は数か月前から言ってくれていました。でも常連 山上さんから最終的に連絡をもらい、一人でやってみようって決意。

でも実際には昔みたいに新橋にずっといるわけではないので準備なんてできなかったんですね。。。前は2か月前から打ち合わせをして臨んでいたんですがね。

それで最後の最後で、「ありがとう」だけはやろうって夜中から書き始め朝になってました。その数、175枚。スタッフ、お客様、家族、場所やモノ、その他いろんなものへの感謝も書きました。

毎年必ずやっていたことだけは一人になってもやろうって、感謝の気持ちを示すことだけは続けたいと思ったんですよね。

ほぼこれだけが準備でした。

14時からのオープン。10時半に到着し、準備を始めました。

そうしたら、独立したフィロ軍団が応援に来てくれました。そのありがとうを店内に張り巡らせてくれました。数分すると碧とゆず、黒井がお手伝い。

「手伝いしに来た」といちろうが来てくれて、なんか一人じゃなーいって嬉しかったな。

そして宮坂が「ありがとう」の白紙を持ってきてくれた。

「準備できてないって言ってたから、みんなで書こうと思ってさ」

僕がずっと続けてきたことを知っている友人が、一番やりたいことをわかってくれて準備してくれるってすごいです。。。嬉しかったなー

おかげで175枚のありがとうが無数のありがとうに代わり、沢山の方からのメッセージで埋め尽くされ、僕も今手元で全部読むことが出来て、幸せいっぱいです。

その後24時までノンストップ。休日のスタッフも沢山来てくれて、手伝ってくれました。また、お食事はないから持ち込みだったけど、無数のごはん。

樹里ちゃんなんて炊き込みご飯を作ってくれたり、もうたくさんの方からの愛情ある差し入れが心にしみました。串揚げからコロッケ、ウナギまでもう豪勢なつまみ。

本当にありがとうございました。

急だったから顔だけ見に来た、差し入れだけくれた方も沢山いた、総勢50名以上。

急だったのに本当に本当にびっくりしたし。ありがたかった。

一人じゃない。そう思いました。

18年前から一緒にいてくれる人たち。長い付き合いの同級生、家族。

この2年で友人になった豪徳寺の方々。

自分が生きてきていることを実感できる日でした。

そしてコロナで失ったパーティ。常に400人以上があの場所に集結していた日。

それを再開した今年、一人でやったのは正解だったかもしれません。

身の丈に合った、全員としっかり分かち合える時間があったから。

大好きな場所で大好きな人たちに囲まれて生きている。

そしてそれが続いていければ、それでいい。

同時に反省しましたね。

自分がこうして生かされているんだから、

もっともっとこういう楽しい空間を作っていかないといけないと。

コロナというものを理由にブルドーザーのように「事業」を進めた。

やりたかったのかどうかはもう「忘れて」しまった。

あまりにもこの3年が変わりすぎて、最初に変化を求めた自分の感情は

忘れてしまったんです。

あまりに多くのことを進めすぎて忘れちゃったけど、

今があるのはコロナがあったから、良くも悪くも。

事業がある程度見えた今。

また、「やりたい」空間、「遊びたい」空間を作っていかないと。

皆と遊んできた若い時期、その「おじさん」バージョンをやっていく。

そんなことも18年、いや20年前に協同広告という広告代理店を退社してからの感謝の一つになると思います。

みんなからのありがとうにも沢山泣かされました。

「ここにいてくれてありがとう」

そんな言葉が多かった。

長い時間かけてこの言葉をもらったんだなって。

なにかをやりたいなーと、やるのとは全く違う。

やり始めるのとやり続けるのも全く違う。

そう痛感しているこの18年で何となくボヤっとわかってきたその先。

もしかしたら20周年で分かることかもしれない。

靄のかかった場所が見えるのかもしれないし見えないのかもしれない。

だから、パーティの最後に言いました。

「とにかくみんな健康で20周年、一緒にいて下さい」

夢と希望に満ちた20周年に向けて動き出します。

その意味も込めて泣きじゃくってる写真も載せておきます笑