okeiのコトバ~okeiオーナー片寄雄啓の話~

神奈川大学を卒業し、広告代理店で6年間勤務。ウルフルズ「ええねん」を聞いて、飲食店独立を決断し、退社。2年弱の修業を経て、2005年に29歳で新橋でokeiを開業。(現在、Pizzeria Terzo okei,Viva okei,酒場961,OKEI BREWERY,Atelier de terrine maison okei,filoの6店舗)飲食の事、カズやサザンのこと、人生の事。コトバノチカラを信じて日記に示したいと思います

祖父について

pizzeria-okei2013-02-04

s久しぶりに書ける。
少々長いだろうが・・・。
1/29に祖父が他界した。
95歳だった。大往生で満足とは言えないが、頑張った。
偉大な祖父であったため、僕としても整理がつかず、文章としてまとめられないし、
気持ちもぐちゃぐちゃだったので、間が空いた。

去年から危ないという知らせがあった。
1/14にもうだめかもしれないと知らせがあった。
翌日仙台へ飛んだ。
全く寝ずに朝1番の新幹線で行った。
大雪の日で路面は雪と氷で埋め尽くされていた。
東京駅までの道のりは暗く、しーんとしていた。
仙台駅からもタクシーに乗れず、電車を乗り継ぎ病院へ。

管が体中に入った祖父は辛そうだった。
僕が大声で呼ぶと、むくっと起きようとして目を開いてくれた。
もごもご何かを伝えてくれそうだったが難しかったようだ。
でもしっかりとした握手をしてくれたことを今でも手に感触として残っている。
1/29、15時ごろに電話があった。母からだった。

最後はこうだったという。
お世話になったドクターが来た時に、力を振り絞って握手を求め、上半身を上げようとした。
握手をして目を開いてぼそぼそ何かを伝えようとした。

ドクターが答え、手を握り、部屋を出るドアが閉まると。ふっと息を引き取ったそうだ。
最後にありがとうと言っていたんじゃないかと母は言う。

新聞社に属し、スポーツ界へ力を注いだ祖父は、社葬として今日と明日お葬式を行っている。
親族は、火葬の際に密葬という形でお別れをした。

あの時のことを、一生忘れることはできない。
遺体に触ると冷たい。
今まで偉大な祖父が死んでしまうと僕に顔や頭を撫でられるまるで赤子になっていた。
焼いてしまう前にいろんな話をした。

社長としている僕は、今ならわかる話がいっぱいある。
男通しと見てくれた協同広告を辞めたとき。
あの頃から僕を社長とみてくれた。
たけひろくんは社員を大事にしなきゃだめだよ。

まだ独立してないのに。

御経を読んでいる40分ほどがあっという間に過ぎた。
今までなら足が痛いとか、早く帰りたいとか思っていたああいう時間。
今となると本当に恥ずかしい。
故人と向き合う時間としてどれだけ有意義かわからない。
火葬するまで幾度となく繰り返される合掌とお経。
あの効率化されない故人と向き合う時間がとてもいとおしく感じた。

しーんとして僕と祖父しかいないような時間。
人はああいう時間を過ごして、とても大きくなるんだろう。
人を失い、自分の事だけではなく、多くの人のことを気遣えたり、
守れたり、誰も効率的なモノばかりも求めてはいけない。

アナログで無駄な時間が尊く感じる。

メールじゃなく、電話で。ラインじゃなくて、会う。
手紙を書く。

祖父は9月くらいから年賀状を書いていた。
1000人以上に書いていた。
それを数十年。
自分を見て恥ずかしくなる。

そんな思いで40分のお経が過ぎた

火葬場にて色んな儀式があり、遺体が焼き場に入っていくところで
祖母がちょっと!ともう一度目の前に遺体を戻し、
泣きながら ありがとうって言ってた。
隣では母が土下座してた。
謝りながらお礼を言っていた。
土下座はずっと続いた、焼かれながらも。

母は祖父に多くの迷惑をかけてきた。
でも、それだけにかわいがられてきただろう。
人に頼ることは悪くないのかもしれない。
頼るということは多くの会話と礼儀と敬いと、破られる前提の約束がある。
破る破られることが分かっての約束ほど、優しく温かいものはないだろう。
信頼関係に他ならない。
その土下座を見て、初めて彼女を抱き上げた。
そして祖母を抱きかかえながら僕は歩いた。
それも初めてだった。

明日、告別式に向かう。
多くの人々が今日は来てくれたようだ。

この人生をどこにささげていくべきか。
そんな思いになる。
祖父が残したものは偉大。
彼がいなくなっても、多くの人へ残るもの。
それが必要かどうかはわからない。
でも、祖父は僕に求めてきた。
社長になることを。
そしてそれを喜んでいた。人と一緒に仕事をして
それを守っていることを。
僕がしてきたことで幸せになるということを求めていこうと思う。
僕が生きていて幸せにできるなら何でもしたいと思う。

祖父が言いたいことはそういうことではないか。
多くを語らず、否定せず、自分の懐で多くを受け止める。
そうでなくても、逃げず、共に戦う。

愛情は時にチープ。
言えば言うほどチープになることがある。

彼が言っていたことは、ただただ、あの祖母が示すように
感謝。

ありがとう

その言葉以上はないんだと思う
男を見た。

写真は祖父が戦争に駆り出されるとき、有志から贈られた寄せ書きの国旗。
御棺に入れるところを僕が燃やさないでほしいと頼んだ。

何百人も特攻隊や戦地に行ったそうだ。
その中で数人内地勤務になった。
その一人が祖父。

戦地に行かなかったために彼は命を取り留めたのだろう。
そして僕に至る。
僕はこの国旗が残ってる=生まれてきたのだ。

人は多くの事を望んできた。
でも祖母にとっては祖父がいるだけで良かったんじゃないかと思う
75年連れ添ってきた。
それしかなかったんじゃないかな。

いろんなものを求めてはいけない
そうじゃなくて、自分が本当に幸せになりたい、幸せにしたいと思う人やそれに値する何かを得るために
努力をしたり、そのために必要な何かを手に入れていく。
そんな思いになる

祖父が亡くなり、多くのことを学んだり、新たな悩みを想う。

祖父を愛している。
僕がどんな時でも笑ってくれた懐を。
僕にとっては親と離ればなれになったり、会いづらくなっても
いつでも迎えてくれたのは祖父祖母だった。

僕の心にはずっとずっと残るだろう。
そして僕が死んでもokeiokeyというものが残ることを夢にしたい。
誰かがここで躍動できる会社でいたい。

今そのためにすべきことをする。
大きな気持ちになる。