okeiのコトバ~okeiオーナー片寄雄啓の話~

神奈川大学を卒業し、広告代理店で6年間勤務。ウルフルズ「ええねん」を聞いて、飲食店独立を決断し、退社。2年弱の修業を経て、2005年に29歳で新橋でokeiを開業。(現在、Pizzeria Terzo okei,Viva okei,酒場961,OKEI BREWERY,Atelier de terrine maison okei,filoの6店舗)飲食の事、カズやサザンのこと、人生の事。コトバノチカラを信じて日記に示したいと思います

周年を終えて

何はともあれ、8周年パーティが終わった。

9日。本当の8周年の日まで色々考え、その日がすーと終わった。

独立者を排出することや夢を叶えてもらいたいという気持ちを強く持ち、
経営してきた中に多少無理が生じたりすることを共に歩むスタッフに
申し訳ないと思った。

でも、自分が与えてきたものがあり続けることがそこにはあることを励みに

やはり同じように生きていこうと思った日でした。

そこから全く自分の集中力が変わった。四の五の考えているんじゃなくて、

今をやりきることを求めだしたから。

10周年を目標に生きてきて、9年目に突入した今、意識せざるを得ない。

ただ、10年目にはこれをやろうとか、ずっと引き出しにしまってきたものを

1週間でできることは全部やろうと思った。

どうなるかわからない。僕も死ぬかもしれない。

だから、今やれることはやらなければいけないと。

皆にどれだけのことが伝わるか。

それはわからなかったけど、やろうと決めた。

ある意味、自分さえよければ、いいという考えだった。

僕が考える今できることを、形じゃなくて、心でもいいから伝えようと。

毎日、寝ることを惜しんで、まずはいろんなことを考えた。

営業が終わってからじゃないと一人になれないから

特に何も改めて作ることはしなかった

とにかく形じゃなくて、かっこよくするんじゃなくてただただやりきろうという

気持ちだった。

当日、1階では18時ごろまで子供たちがはしゃいでいた。

本物のぶどうを天井に飾り、ブドウ狩りをする。ピッツァを焼く。

アンパンマンカレーパンマンを選んでもらって焼いてもらう予定だったが

ドラえもんがいいとか、静香ちゃんがいいとか、ばい菌マン、ドキンちゃん

奇想天外なことを言われて、皆あたふたしてた。

元天ぷら屋の若いスタッフには天ぷらの格好をしてもらい、天ぷらを揚げてもらった。

おいしかった。

八周年の★は金色にした、これも10周年にやる予定だったこと。

インポーターに来てもらっていろいろやってもらったのもそうだった。

2階3階は18時までは開けないつもりだったが、人が多くて無理だったので16:30には開場した。

正直、僕は乾杯もする余裕がなく、走り回っていた。

スタッフへの指示もできていなかったので、皆戸惑っていた

それでも皆には事前に話していた。

何があっても、笑顔でいてくれと。いろんなことがあると思うと。

それでも空気を感じてくれと。

イライラせず、楽しくいてくれと。

8周年というこの舞台はものすごい人だった。

何人かは、数えられていない。

でもパンパンだったことは間違いない。

7周年とは違った。

思えば3周年の時、1店舗だった中に同じような感じになった。

やばいと思った。

その感覚だった。

ほぼ飲まず食わずでサービスに集中していた。

そして広沢さんマネージャーが到着し、唖然としていた
一緒にマイクのテストをして、アカペラでサフランの花火のさびだけ歌っといた

そのあと、いよいよってことでライブスタート

2階にも音声が流れるようにしていたため、さほどのトラブルにはならなかった。

圧巻だった

音声も割れたり、いろいろ問題があったけど、笑顔でやってくれた。

アーティストライブが自分の店で行われる感動が常に僕を温めた

サフランをうたってくれる時に、彼の後ろに僕が制作しておいた歌詞を出した

壁いっぱいに書かれたサフランの歌詞は美しかった

僕は歌い始める前に泣き崩れてしまった

もう耐えられなかった

8年を振り返ることはできない。

長いからね。

でもあの曲でいろんなことがちょっとずつ紐解かれていく感覚があった。

広沢さんは20歳の時に作ったという

ライブ後に二人で話していた時に聞かせてくれた。

8年という歳月がこの雰囲気を作っているんですねと。

また何か夢がかなう時には呼んでくださいと温かい言葉をくれた。

そのあとは、23時ごろまでは飲み会という感じ。

僕も仕切りを終えて、少しお酒が飲める時間。

どうやって終わるとは考えていなかった。

音楽のボリュームをあげて、ちょっとしたクラブ的な感じでワイワイしてみた。

そして最後にいとしのエリーを大音量で流し、大声で歌ったよ

最後のあいさつでまた号泣した。

神大と協同広告に本当に感謝をしたいと伝えた。

毎度のことながら、その目の前にはその二つのグループは数えるほどしかいない。

みんなやきとんとかほかの店に飲みに行っているんだよね 笑える。

特に泣きながら神大には感謝をしたいと伝えた。

がんちゃんとあと2名だけがいたから。

がんちゃんも泣いてくれていた。

僕の思いが伝わったと思った。

このお店は神奈川大学によって作られましたと。

神奈川大学が全てですと。

ナカタが出社してきたのが12/5.

僕がこのお店を契約したのが11/1.

その1か月間、このお店を作り上げたのは間違いなく神大と協同広告なんだと。

深々と頭を下げた。

泣くことではないのかもしれない。

でもなぜ泣いてしまうかというと、お店というのが大きくなればなる程、

お店が長く続けば続くほど、新しいお客様や仲間が増えるほど

彼らと過ごす時間も、気持ちを伝える時間もなくなるから。

そして社員も仲間もお客様も、その思いを感じることもなくなり、

風化していくことが悔しいし、皆が感じなくてはいけないことだと伝えたかった

今年のありがとうにはお客様へのありがとうは僕からは書けなかった

あまりに多くて固定の方々へのことを伝えられなくなってしまった。

大きくなると伝えられないことがあると知った。

でもその時、みんなからのありがとうは違った

僕ができなくなったことを普通にやってくれた

あれには感動した。

ありがとう。

僕は今までずっといろんな人に良く思われて生きてこようとしたのかもしれない

それで失うことを知った。

それを捨てても神大だけに伝えられればいいと思った

そしてその思いはいくらかの人たちには伝わったんじゃないか

そう思う

そして最後に10周年に向けて伝えたかった。

ここにきている人達は、元気でいてくれと。

スタッフたちはやめても何でもいいから、健康でいてくれと。

お客様たちにも。

そして2年、この2年、元気で過ごしてくれと

そして10周年でともに集えたら互いをたたえあおう。

8年という歳月はいろんなものをそぎ落とした。

こうしたい、ああしたい、その思い以上に、継続するには健康。

その環境づくりを考えるようになった。

8年にしていろんな回り道をして自分が整ってきた感じがする

この周年を通じて、気が楽になった。

僕は僕だと。

大声でやりたいことをやりきればいいと思っている

お客様がいてこのお店がある。
それと同時に、家族、仲間がいて僕個人がいる、そう強く思う一日でした。