okeiのコトバ~okeiオーナー片寄雄啓の話~

神奈川大学を卒業し、広告代理店で6年間勤務。ウルフルズ「ええねん」を聞いて、飲食店独立を決断し、退社。2年弱の修業を経て、2005年に29歳で新橋でokeiを開業。(現在、Pizzeria Terzo okei,Viva okei,酒場961,OKEI BREWERY,Atelier de terrine maison okei,filoの6店舗)飲食の事、カズやサザンのこと、人生の事。コトバノチカラを信じて日記に示したいと思います

改めて思う、あの日のこと。

明日、東日本大震災の日。
何というか10年後にコロナ感染が広がってること。
そんなことを考えて、何となくここに書いておこうかなと思います。

自分の社員には、同じようなキモチをラインで書いて送りました。

日本は災害国です。この10年間でも多くの災害がありましたね。
近年は豪雨・洪水・台風など。
新島に行ったときも感じました。
えぐられた浜辺と倒壊した家や木々たち。
僕らが生活している中では感じられない場所で泣いている人がいます。
10年前。
僕らは2店舗。今なお勤めてくれている、石丸・碧はすでにいましたね。
2階3階でお店をやっていたokeiには多くのお客様が助けを求めに来ました。
みんなオケイを目指してきたのです。
埼玉から神奈川から歩いてとにかくokeiなら何とかしてくれるって。
自転車もスニーカーも何でも渡しました。
余ったピザは病院に届けたり。
飲食してもしなくても、誰でも受け入れました。
朝10時までお客様が帰るまでずっと起きて話したり、泣いたり、調べたり。
何でも食べてもらいました。
当時のシェフの家族は流されました。
僕の親族も被災したり、亡くなった者もいました。
飲食店ではあるけれど、何か違う動きをしていました。
色んな死を目のあたりにして、営業を続ける日々。
ろうそくで営業した日も沢山ありましたね。
すぐに確認したのは自分の預金通帳。
確実に破産すると思ったので、みんなにどれだけお金を分けてあげられるか。
そればかり考えました。
コロナ感染の今、給付金や融資の優遇があったり恵まれています。
大震災の時は、何もありません。
誰も来ませんが何もありませんでした。
だって、被災地じゃないから。
新橋からは光がなくなり、看板はついていない。
飲んではいけない、会話もひっそりと。
笑っていることが、楽しんでいることがNGの空気が数か月。
隣の人が被災している友人、家族を抱えているかもしれない感じ。
家族がいる被災地にも行きました。
泥まみれ、異臭。何をしてもぬぐえない。
地平線が延々と続く、津波の傷跡。
忘れられない。
何の保証もないなんて、全く不思議に思わなかった。
だから、今こんなに保障してもらえることを感謝しなければならない。
10年前は200万ほどの寄付。
それ以来都度寄付をしてきた。
スタッフに協力してもらったことも沢山ある。
今、子ども食堂やホットケナイン。それも当然の流れかもしれない。
今、自分たちの立ち位置を間違えてはいけない。
全然、恵まれてなくない。
生きているし、希望もある。
新橋が生き生きしていくことを見ていけるだろう。
不安だから違う土地でもオケイをオープンしていくことも
夢があるでしょ?
新しい事業も行い、知識や組織力もついていく。
もちろん、新しいことをやれば時間がかかるし、トラブルもある。
スタッフと時には多くの時間を費やしながら、トライすることもあるだろう。
でも、それが何かを得られると信じることができたらいいんじゃないか。
僕は出来るだけ、スタッフやお客様をそういうオレンジ色の空気へ導きたい。
今の不安を少しでも解消したい。
ただ、僕らは不幸ではないし、困ってもない。
国もサポートしてくれる。仲間もいるんだ。
3月10日は東京大空襲の日。戦争の日だ。
全てを失った日。
多くの死が一瞬に起こったことがこの日本でもあった。
死ぬまでにそんなことがこの日本にないとも言えないのかもしれない。
だから、今大切な人といて、仲間を大切に、今できるチャレンジを
一緒にしていこうじゃないか。
再来週の月曜日から僕らの店が動き出す。
いろんなお店が色んな取り組みをして、焦ったり、苛立ったりするかも?
いや、外は外。うちはうち。
出遅れていても、取り戻せることもある。
大切なのは、今を生きることだ。
それぞれのお店のスタッフが少しずつ22日に向けて動いてくれてる。
明日、色んなテレビやネットで震災をやるだろう。
今まで目を背けていた人は少し見た方がいい。
改めて。
長々書きました。
僕は、今のオケイスタッフと一緒にトライができて幸せです。